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珈琲

2004年3月15日 サイト初掲載作品

パラパラとページを捲っていた指先が止まる。
背後から漂ってきた香ばしい珈琲の香りが、本に集中していた意識を瞬く間に霧散させる。
凝り固まった肩を解すようにして振り向いた俺の目に、少し不安げな面持ちの彼女が映る。

「・・・よろしいですか?」

両手で大切に抱え込まれた白い陶磁の珈琲カップから立ち上る湯気の向こう側で、今にも泣き出しそうな表情の彼女が小さい声を零した。
おそらく読書に集中している俺を中断させてしまったのではないかと慮って、申し訳なさそうに視線を落とす彼女があまりにも可憐過ぎて、しばし見惚れたまま動けなくなる。

「いや、丁度休もうと思っていたところだから大丈夫」

俺の言葉を項垂れたまま聞いていた彼女の表情が、僅かに綻ぶ。
うっかりしていれば見逃してしまうほど微妙に揺れ動く彼女の表情は、見ているだけでずっと傍に居てあげたいような・・・そしてずっと彼女を守り続けていきたいと思わせる意識を奮い立たせるような、繊細な色に彩られていて。

「・・・珈琲、淹れてくれたの?」

俺の問い掛けにハッとして顔を上げた彼女は、ほんのりと頬を染めると聞き取れないほどの小さな声でポツポツと話し始めた。

「あの・・・。先日・・・島さんが珈琲を私に淹れて下さったのが嬉しくて・・・その・・・見よう見まねで私も淹れてみたんです・・・。ずっと・・・本に集中していらっしゃったところを中断するような形になってしまって・・・申し訳ないんですが・・・」

彼女の言葉の裏側にある気持ちに意識を廻らした途端に、胸の中に溢れてくる想い。
それは暖かくて、何よりも優しい気持ちのみで。
直接的な言葉では己の中の気持ちを言い表すことなど一切しない彼女だから、珈琲を淹れてくれた理由など俺に零すことなど絶対有り得ないはずで。
だから尚更、彼女がの為に珈琲を淹れてくれた理由(わけ)を聞かないまでも、立ち尽くしたままの彼女から漂ってくる気配のみで伝わってくる気持ちが痛いほど分かって。

『どうか、無理しないで身体を休めてくださいね』

そう、面と向かって言えない代わりに珈琲を差し出すことで、俺の事を思い遣ってくれる彼女の気持ちが何よりも嬉しくて。

「ありがとう!遠慮なくいただくよ」

強張ったままの表情で立ち尽くしてる彼女の手許から、そっと珈琲カップを貰い受けながら静かに口をつけて一口含んだ。
口の中に広がる奥深い味は、いつになく苦味と甘さが程よい感じでブレンドされていて、体中に心地よい感覚と開放感をもたらしてくれた。
まるで俺の嗜好を分かりきった上で淹れてくれたような珈琲の味に言葉が出ない。

「美味しい。・・・僕好みの味だ」

ずっと強張っていたままだった彼女の表情が静かにゆっくりと綻びながら、ホッとした表情に成り代わる。
俺が淹れた手順をしっかりと見逃さないように真剣に見続けていたあの日の彼女の表情が、ふと鮮明な記憶とともに蘇る。
俺の為に美味しいコーヒーを淹れようと一所懸命勤しんでくれた彼女の思いが込められた珈琲は、このまま飲み干すのはもったいない位に貴重なものに思えて。
そう思い立った瞬間に漏れ出た言葉は、何時になく優しい口調だったかもしれない。

「・・・もしよければ、もう一杯おかわりくれる?」

俺の言葉を聞き届けた彼女の顔に驚きの波紋が広がる。
何といって言いかわからないまま、口元に手を押し当てて困惑しているだけの彼女に珈琲カップを手渡す。

「御願いしても・・・いいかな?」

当惑していただけだった彼女の表情が少しずつ緩んで、嬉しさをほんの滲ませたような柔らかな笑顔へと変わっていく。

「はい。・・・すぐにお持ちしますね」

珍しく小走りでキッチンへと向かう彼女の背中を後押ししてくれるような、優しくて仄かな珈琲の残り香が穏やかな時間の波間に溶け込んでいく。


幸せだと思える瞬間が・・・またひとつ・・・お互いの心に積み重ねられていく。

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